「二上の将棋はキリで突き刺すような鋭さが特徴」田丸九段が語る、二上九段の思い出。

昭和の将棋史にその名を刻む名棋士・二上達也九段が2016年11月1日に84歳でこの世を去りました。タイトル戦には26回登場。タイトル獲得は、5期におよびます。日本将棋連盟会長を長く務め、将棋界の発展にも寄与しました。

今回、二上九段の思い出について田丸昇九段に綴っていただきました。田丸九段は、現役時代に二上九段と対局しており、二上会長時代には、出版担当理事を務めました。今だからこそ書ける話を3回にわたって連載していきます。

私が奨励会に入った1965年(昭和40年)の頃の将棋界は、大山康晴名人と升田幸三九段の両巨頭に対して、二上達也八段と加藤一二三八段が次代の精鋭として迫っていて、米長邦雄五段と中原誠四段はまだ若手棋士でした。(※棋士の肩書はいずれも当時)

二上八段は奨励会入会からA級八段まで、わずか6年の最短記録で昇進しました。1963年には王将戦で大山王将を破ってタイトルを初めて獲得し、大山が4年にわたって独占したタイトルの一角を崩しました。その後も大山とタイトル戦で何回も対戦しましたが、なかなか牙城を攻略できませんでした。二上の将棋はキリで突き刺すような鋭さが特徴でしたが、大山の振り飛車と強靭な受けに苦しめられました。

私は奨励会時代、大山-二上のタイトル戦で記録係を何回か務めました。当時の大山は対局場で、前日の夜、1日目の夜、時には2日目の終局後に、棋士や関係者といつも麻雀を打ちました。二上はお酒好きなので宴席ではゆっくり過ごしたかったようですが、大山に「さあ麻雀だ」と言われると、付き合いで麻雀卓を囲みました。

大山が相手の挑戦者に、1日目の封じ手を定刻の2時間前に行いたいと持ちかけたことがありました。その2時間を両対局者が1時間ずつ「みなし長考」した形にして、対局を早めに切り上げたのです。従順な性格の二上はそれを断り切れませんでした。そして麻雀が始まりました。

大山が五冠王時代(昔は5タイトル)に自分のペースで対局場を仕切ったのは、ひとつの盤外戦術だったようです。相手の挑戦者は盤上でも大山に丸め込まれてしまうことがありました。

二上八段はある観戦記者に「自分をもっと主張したらどうですか」と言われたとき、「我を通さずに、それでも大山名人に勝つようになりたいと思います」と語りました。しかし大山との計20回のタイトル戦で勝ったのは2回だけで、大山打倒は結果的に成りませんでした。

昔の九段昇段の規定は「名人2期・A級順位戦で抜群の成績」と定められ、九段資格者は大山、升田、塚田正夫九段の3人だけでした。つまり九段は、名人の彼方に存在するという逆転現象が生じていたのです。

そこで、1973年にタイトル獲得と挑戦、A級在位年数などを数値化した九段昇段の新規定が設けられました。二上八段はその新規定で最初に九段に昇段しました(ほかに3人)。


撮影:田丸昇

写真は、1975年11月17日に東京の「蔵前国技館」で行われた第1回「将棋の日」の式典の模様。左から内藤國雄九段、加藤一二三九段、二上九段、塚田九段、大野源一九段、大山棋聖、中原名人(升田九段、丸田祐三九段は欠席)。当時の現役棋士の九段は9人だけで、とても希少でした。

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