一度は...――佐藤和俊七段

一度は...――佐藤和俊七段

ライター: 佐藤和俊  更新: 2021年03月23日

 今回コラム執筆の機会を得たので、昨年5月7日第32期竜王戦1組決勝羽生九段戦。緊急事態宣言の最中に行われた1局(1日)を対局者の目線で振り返りたい。

 7時30分、やや寝不足を感じつつ目が覚める。対局前にプレッシャーから眠れないことはほとんどないのだが、これも大舞台ゆえの緊張か、それとも久々の対局のせいか。起床して日課となっている検温をする。コロナ禍において体調を崩さずに過ごせた事は幸いなことだった。電車に乗るのも一か月ぶりになったが、元々は前日に緊急事態宣言が解かれるはずだったこともあり、車内には思ったよりも人は戻っているように感じた。それでもこの時間ではあり得ない人の少なさである。

 電車を降り、将棋会館まで30分ほどの道程を歩く。いつもと変わらない風景に見えたが、マスクを売る露天商が出ていて現実に引き戻す。3000円弱が相場の時期で値札を横目に見ながら歩きを進める。そして道すがら4年前の羽生九段とのNHK杯戦を思い出していた。あの時は勝つことでその後の思わぬ活躍につながり自分の棋士人生も上向いた。それから再び掴んだ大きなチャンスである。今日結果が出ればまた景色は変わるだろうか。そんな思いを巡らせ9時40分、将棋会館に到着した。

 4階に上がりボードを確認する。本日の対局室は特別対局室、いわゆる「特対」である。特対は基本的にその日の対局者で一番格上の棋士の対局か、大舞台で使用されるため、私には機会がすくない部屋になる。この日は対局相手の羽生九段の格というより1組決勝という舞台優先で相手云々ではないと思われるが、このケースでの特対での対局は棋士になって初めてではないかと思う。

 中継があるのでいつもより早く対局室入る。ほどなくして羽生九段が入室されて空気が引き締まるのを感じる。私は対局に臨むうえで闘志が湧くタイプではないが、それでも羽生九段独特のややゆったりした駒並べに歩調を合わせていくと自然と気持ちが高まっていくのを感じた。振り駒で先手番を得る。作戦は決めてきたがわずかな逡巡はあった。1分で振り切り▲7六歩を着手して長い一日がスタートした。

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写真:睡蓮

 約1か月ぶりの対局。将棋会館で中継が入るのは初めての経験になるが、それによる緊張はなく勝負に入れた。
ただ早くも違和感を感じることもあった。一つはマスクのことで、花粉症でマスク慣れしているとはいえ、ずっと着用して対局に臨むのは初めてのため水分補給において戸惑いがあった。少し考えてしっかり外して飲むスタイルをとったが、億劫に感じるところもあっていつもより飲む量が大分少なくなってしまった。
もう一つは換気のため窓を開けていることで、普段は静けさが優先される対局室では異常なこと。この日は風が強いこともあり、時折窓をたたく音が響いていた。やや肌寒さを感じる日であったので、薄手のベストを持ってきていて助かった。

 10時30分頃昼食注文が来る。私は何を頼むか決めてこないことがほとんどだが、この日は自粛中に食べたかったが機会がなく我慢していた鰻と決めていた。しかしメニューが見当たらず確認するとお休みとの回答。気分が乗れば大胆に鰻の昼夜連投も視野に入れていただけに早くも構想が崩れる。GW明けだがこの日まで休みのお店が多かったようで、考えて来た時に限ってこれでは出鼻をくじかれた思いになる。注文の後、気を取り直して対局のお供である扇子を取り出す。昨年七段に昇段した際、四段昇段以来となる扇子を作成した。もう少し先でという思いもあったが八段昇段規定の険しさを確認し、いつになるかわからないのでこの節目で作ることにした。だが扇子入れから取り出し広げると久々の対局が災いしたか違う扇子を持ってきていることに気づく。迷ったが今日は使わないと決めを鞄にしまう。
盤外では少しトラブルはあったが盤上は穏やかに駒組みを進め12時、昼食休憩に入った。休憩ではソーシャルディスタンスが取られた桂の間できつねうどんをすする。この時から今日までこの形で黙々と食べることが暗黙のルールにならざる得ない状況は残念に思う。

 12時40分、昼食休憩が明ける。対局内容の解説に入る前に自粛期間中のことにも少し触れたい。コロナ禍により対人での研究会が難しくなり、棋士も調整法の変化を余儀なくされたのではないかと思う。私も直近で将棋を指したのは対局の一週前の「おうちでAbema」の企画であった。佐藤紳哉七段との3番勝負のエキシビションマッチだったが、気楽に指せる状況なはずもフィッシャールールゆえの独特の緊張感があり文字通り心臓がどきどきした。練習でこれでは、AbemaTVトーナメントに出場された棋士のプレッシャーは半端のないものだと容易に想像がついた。
話を盤上に戻し、この対局で私の採った作戦は大橋六段が著書を出されている「耀龍四間飛車」。序盤早々に金無双を目指す▲4八金と指すのは少し照れる手であったが、思い切った戦法に命運を託した。それでも最近の流行の移り変わりの速さを感じるのはこの半年余りで振り飛車も耀龍をはじめメジャーにはなりそうもないように思われた戦型の採用が増えていることで、私も今なら堂々と▲4八金と指していただろう。中盤戦に入りじっくりした展開を予想していたが、羽生九段が後手番ながら積極的に仕掛け15時過ぎに早くも戦いになった。

 ポイントにあげるのは第1図の局面で

【第1図は△3五歩まで】

 直前に△4四角▲6七金△3五歩と進んだところ。羽生九段が局後△4四角では単に△3五歩だったかと振り返えられた場面でそれなら▲同歩△4四角▲6七金△3五角▲3七金と進んだであろう。最後▲3七金は形が悪いが自分の第一感の順なので比較的少考でその順に手が出そうになる。ただ微妙な手順の違いでこちらに選択肢が広がったことで迷いが生じる。一度踏みとどまると手は出なくなり長考に入ることになった。

 考慮中に夕食の注文が来る。ここは鳩やぐらで立て直しを図るが、メニューが見当たらず休みと理解して他を頼むことに。ただ将棋連盟liveで当時の記事を確認すると羽生九段は昼食で鳩やぐらを頼まれている。盤上に集中し過ぎて心ここにあらずだったのか今となっては謎である。風も弱まり静寂が戻った対局室、緊急事態宣言下で本局の記録係を務めてくれた本田五段も静の姿勢でいるので全く動きのない、切り取られそうな空間で読みに耽る。そして92分大長考の末に第一感を捨て▲8五歩と攻め合いの順を選択する。以下△3六歩▲8四歩△3三銀右▲8三歩成△3二飛と進み夕食休憩に入った。

 やはり敗戦局だけに夕食休憩明けからは少しタイピングが進まなくなる。▲8五歩からの手順中△3三銀右は読みになかった羽生九段らしい柔らかい手で読み直しになった。代えて△7二飛として▲8三歩成には△7五飛▲7六歩△同飛▲同金△7五歩といった穴熊ならではの強攻の変化を警戒していた。読みは外れ長考は無駄になった部分も多いが本局は「耀龍」としてはまずまずの分かれだったと思う。実際にこの周辺はAIの評価値的にもやれていたようだが、薄い玉形のためパンチを当てられたら終わりなので少し自信なく局面をとらえていたのが正直なところだった。その後小ミスが続き悪い予感が現実となったのは△4七歩(第2図)の局面。

【第2図は△4七歩まで】

 陣形をゆがませる一着だが気持ちもぐらついた。この手を境に崩れるのだが、自分の弱さはその後に来たチャンスを生かせなかったことに尽きると思う。これ以上は愚痴しか出てこなくなるのでまとめに入ろう。

 21時、挽回不能な差を悟る。この一局の重要性は体も理解しているのか全身に嫌な汗を感じる。微妙に持ち時間が残っていることもあって局面への思考は止まり、後悔、自責といった感情が沸き上がる。ただそれも一瞬のこと、気持ちの整理をつける。
21時17分投了。感想戦の前に取材が始まる。羽生九段のインタビューを聞いていると、NHK杯戦準優勝の表彰式を思い出し寂寥の念が胸に広がっていく。その気持ちを振り払い自分へのインタビューでは淡々と感想を述べた。事前に感想戦は短めと聞いていたこともあり20分弱で終了した。難解な将棋で特に第1図の周辺から終盤戦はじっくり羽生九段の見解を伺いたいところであったが致し方ない。
そして感想戦が終わり誰もいなくなった対局室にしばし佇む。やがて重い腰をあげ、エレベータ前で観戦記者の方と言葉を交わす。そのまま帰ろうと思ったが、忘れ物をした気持ちになり立ち止まる。そして現れた本田五段に一声かけて将棋会館を後にした。
帰り道、敗戦のせいかいつも見ている景色と変わりはなかった。様々な思いが交差して、この日は前日同様に眠りの浅い夜になったのは言うまでもないだろう。

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写真:睡蓮

 あれから月日は流れた。いろいろと得難い経験をした一日であったが、あの一局を勝利していたら結果を胸に少し気楽に人生を送れると思っていたので残念であり、なかなか楽にさせてくれないものだ。ただ前向きに受け止めるなら満足してしまうのはまだ早いということかとも思う。果たして次のチャンスは巡ってくるのか、今後の状況はさらに厳しくなるだろう。それでも一度は・・・という思いを抱き、あらがっていきたい。

私のシリーズ

佐藤和俊

ライター佐藤和俊

1978年6月12日生まれ。千葉県松戸市出身。加瀬純一七段門下。 1990年6級。2003年10月四段。2019年10月30日七段。 第35回将棋大賞で連勝賞を受賞。

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