「四段になれそうもない、三段だった」高野秀行六段の忘れられない一局【平成の将棋界を振り返る】

「四段になれそうもない、三段だった」高野秀行六段の忘れられない一局【平成の将棋界を振り返る】

ライター: 高野秀行六段  更新: 2019年04月09日

駒が升目に入らない。

「王」「金」「銀」まできても指の震えが止まらず、駒が歪んでしまう。余程左手で右手を支えようと思ったが、多くの報道陣がいる特別対局室で、それは出来ない。そこへ汗が一気に噴き出してきた。盤の上に落とすわけにはいかない。タオルハンカチで汗を拭い、震える指で駒を並べる。ようやくの思いで、余り駒を駒箱へと収める。「始まる前から、何をやっているんだ」そう思ったら、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

61年ぶりとなる「プロ編入試験」。6局指して3勝3敗なら合格のルールとなり、私が5局目の対局者となった。試験対局1局目が始まる前から急所の一局になるだろうと思っていたが、予想通り瀬川晶司アマ(当時)が勝てばプロ編入となる状況で本局を迎えた

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故・花村元司九段以来61年ぶりのプロ編入試験は六番勝負で行なわれ、第1局は、佐藤天彦三段(現・名人)だった。写真は記者会見の模様。

私と瀬川さんは、昭和59年入会の奨励会同期。三段リーグも多く戦った。そして、私たちには共通項があった。

「四段になれそうもない、三段」だった。

四段目前の三段リーグだが、言うまでもなく「四段」の壁は果てしなく高い。それを壁とも思わず10代で棋士になる者。年齢は重ねているが、力が違うと感じさせる者。言葉には出さないが、その中にいれば嫌というほど力関係が分かる。20歳は過ぎていたが、木村一基(現・九段)、野月浩貴(現・八段)は、はっきりと強かった。いつか「四段」になるだろう、みんなが思っていた。そして、私と瀬川さんはそのグループではなかった。

年齢制限ぎりぎりで、なぜか勝ち星が集まり、私は運よく四段に昇段して棋士になることが出来た。その体験もあって、奨励会からでしか棋士になれないシステムに柔軟性を持たせた方が良いと考えており、瀬川さんのプロ編入試験も賛成の立場を取っていた。

しかし、その対局者となれば話は別である。「六番勝負を五番で終わらせる訳にはいかない。ましてや、自分の番で歴史を変えることになっては...」。どう考えても、歴史を背負える実力などないのに、全く持って大変である。

緊張が解けぬ日々を過ごし、対局日を迎える。案の定、朝からバタバタであったが、対局が始まると普段通りに指すことが出来た。

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対局開始の模様。「将棋世界」 平成18年1月号より(撮影:中野伴水)

瀬川さんの横歩取りに、序盤早々私が切り込んでいく展開。はっきり良くなったかと思ったが、プロ入りが懸かった将棋である。瀬川さんも粘り強い受けで、決め手を与えない。そして第1図を迎えた。

【第1図は△3一同玉まで】

この局面、私は1分で▲3九歩。だが、△5四角と攻防に打たれ、先手に有効な手がない。第一、こんな急所に角を打たれてはいけない。▲3九歩では▲3三歩が最善手。△6九角▲6八玉△5九角▲6九玉△4八角成で負けと読んだが、▲6九玉で▲7九玉とわざと角を取らずに逃げれば、後手は手が続かない。

「少し良さそうだから、ここは安全に」。

わずか1分の▲3九歩。急所で踏み込みを欠く欠点が、この大一番で露呈してしまった。

この後、優勢になった瀬川さんにも疑問手が続き、泥仕合となるも、流れがきたと感じたことは一度もなかった。

投了後、鳩森八幡神社で行われていた大盤解説場へと移動する。強く降る雨に「傘がなければ、気持ちがいいのに」。そう思った。

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第5局終局後の記者会見の模様。「将棋世界」 平成18年1月号より(撮影:中野伴水)

時は10年以上流れて、特別対局室が編入試験以上の喧噪に包まれた。あどけなさも残る15歳が涼しい顔で、駒を並べてゆく。「なんという違い」と苦笑いするほかないが、私の中で新しい感情が浮き上がってきた。

一度でもあのような環境で将棋が指せたことは、棋士になれたからこその、最高のプレゼントではなかったのか。今回、初めて並べ返した▲3九歩。ずっと頭から離れなかったこの痛恨の一着が、懐かしくさえ思えた

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高野秀行六段

ライター高野秀行六段

1972年6月横浜市生まれ。1984年に6級で中原誠十六世名人に入門。1998年4月に四段。棋風は居飛車本格派。趣味はゴルフ。将棋教室で多くの子供たちに将棋を教えている。

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