「7七の地点が光って見えた」谷川浩司九段が語る、2100局以上の公式戦史上最高の一手とは?

「7七の地点が光って見えた」谷川浩司九段が語る、2100局以上の公式戦史上最高の一手とは?

ライター: 谷川浩司九段  更新: 2019年04月11日

平成の時代もあと僅か。情報技術という観点でこれほど大きな変革があった時代はなかったと思う。それは将棋界も同じである。

平成の初めまでは、公式戦の棋譜も紙の時代だった。事務局でコピーしてもらった大量の棋譜を、ひと月に1~2回、自宅に持ち帰る。棋譜を並べた後は、例えば中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖、といった具合に、トップ棋士20名ほどに分類してファイルしていたことを思い出す。

タイトル戦に常時テレビカメラが入るようになったのは、昭和63年のことである。中原名人に私が挑戦した名人戦が最初で、次に竜王戦も加わった。NHKのBSも番組のコンテンツが少ない時代でかなりの長時間、放送した。

タイトル戦を生中継で見られるというのは、ファンにとっては画期的だったし、プロにとっても、対局者と同時進行で次の一手を考えられるようになったのは大きい

そして、平成に入って棋譜のデータベースが出来た。これによって、対局者での検索だけでなく、局面での検索も可能になり、序盤や仕掛け直後の研究が大きく進歩した。

ただ、私がそれを取り入れたのは平成7年。パソコンに詳しい淡路仁茂九段に自宅に来て頂き、セッティングして頂いた。明日からこれで研究を、と楽しみにしていた翌日、阪神・淡路大震災に遭う

揺れが収まった瞬間に心配になったのは、パソコンが倒れていないかだった。パソコンは無事だったが、それよりもっと酷い現実を目の当たりにし、呆然とする。

神戸を離れることになり、データベースで研究できるようになったのは、ライフラインが復旧して神戸に戻った平成7年(1995年)3月初めのことである。

そして、15年ほど前から公式戦の対局がネットで中継されるようになった。続いてモバイルでも。これによって、東西や地方との情報格差はなくなったと言える。

対局場に出向く必要もなくなり、自分の手すきの時間に現局面をチェックし、次の手を考えられるようになった。 近年ではAI。私は取り入れておらず、また将来的にもないと思うが、効率的に研究できるようになったことは間違いない。これからは、新しいタイプの棋士も生まれてくるだろう。

最後に、平成の30年間で印象に残る対局を、2局挙げておきたい。

平成7年 王将戦第7局

まず第1図は、平成7年の王将戦第7局。将棋界全体としては翌年の羽生善治七冠達成の方が大きな話題だが、私自身としては震災を経験する中でのシリーズだけに、様々な思いがある。

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平成7年王将戦の様子

最終局は千日手となった。先後を入れ替えての指し直し局は第1図まで同一に進む。まるで、お互いが相手の指し手を認め合っているようだった。

千日手局では、ここから、羽生さんは▲7五歩から激しく動いたが、指し直し局で私は▲3五歩と押さえて、持久戦となった。フルセットの末の防衛で、被災地に明るいニュースを届けることができた。

【第1図は△3三銀まで】

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平成7年王将戦の様子

平成8年 竜王戦第2局

次に第2図は、平成8年の竜王戦第2局。ここでの△7七桂は、2100局以上に及ぶ公式戦の中で、最高の一手と言えるかもしれない。

【第2図は△6九飛まで】

ただでさえあちこちで駒がぶつかって局面が混沌としている中、さらに桂をただで捨てて混沌を深める一手。このような手が浮かぶのは理屈ではない。7七の地点が光って見えたと書いて、信じてもらえるだろうか。

羽生さんを相手にこのような手を指せたというのは、それだけ充実していた証である。

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平成8年の竜王戦の様子

間もなく新しい時代となる。AIが登場した今、棋士も原点に返って、技術と個性を今まで以上に磨かなければならない。

そして私自身も、第2図の△7七桂を上回るような手を指せるよう、これからも精進したい。

撮影:中野英伴

谷川浩司九段

ライター谷川浩司九段

21歳の最年少で名人となり、以降数々のタイトルを獲得。十七世永世名人有資格者。平成に入り、羽生九段と多くの激闘を繰り広げる。鋭い終盤の寄せは光速流と呼ばれている。

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