加藤一二三九段が語る、升田幸三実力制第四代名人の思い出とは?【加藤一二三の語る升田幸三の世界 後編】

加藤一二三九段が語る、升田幸三実力制第四代名人の思い出とは?【加藤一二三の語る升田幸三の世界 後編】

ライター: 古川徹雄  更新: 2019年01月18日

升田幸三をご存知ですか

前編に続き、U-18将棋スタジアムでの加藤一二三九段の講演「升田幸三の世界」を記載する。

katoumasuda02_01.jpg
当日展示された升田幸三年譜。撮影:古川徹雄

katoumasuda02_11.jpg
講演をする加藤九段。撮影:古川徹雄

「升田幸三の世界」

加藤 かつて九段戦の後継で竜王戦の前身となる十段戦という棋戦がありました(※後に十段戦が発展的解消となり、現在の竜王戦が誕生した)。昭和37年の第1期から第3期までは升田先生が連続して大山先生(九段戦から十段戦へ名称変更があったため第1期は大山がタイトルを返上しリーグ戦に参加し升田と七番勝負を戦い初代十段を獲得)と戦って連続で敗退。その後、二上達也八段も第4、5、6期と3期連続で挑戦者になって、こちらも残念ながら敗退。そして私が第7期に挑戦者となって、昭和43年から昭和44年の夏まで7戦をフルに戦い、勝って十段になったんですよ。

katoumasuda02_02.png
第18期名人戦七番勝負第5局での大盤解説の模様。木村義雄十四世名人と花村元司八段が解説をした。所蔵:日本将棋連盟

升田先生は九段のタイトルは2期獲得しているんですが十段にはなれなかった。実力もあったんですが升田先生は十段戦でも3度大山先生に負かされた。

 

いま振り返るとね、挑戦者になること自体がとても大変なことですよね。升田先生は負けても負けても挑戦者になってライバルの大山名人に立ち向かっていった。その不屈の闘志は大変偉いと思っております。

 

升田先生はよく私に言っていました。自分は順位戦で負け越したら即引退すると。名人戦に繋がるA級順位戦は大体10局くらい戦うんですが、負け越したら引退するという決意、それぐらいの覚悟でないと順位戦というのは勝つことができないとも言っていましたね。 

 

升田先生が後年大山名人に勝てなかったのは、やはり作戦が上手くいかなかったんですね。私はよく思っているんですけれども、例えば棒銀とか矢倉とかですね、作戦が大事で、棒銀はやはり優秀な作戦で完全に大山名人に勝てたと思うんです。それで大山名人と戦った升田先生とか二上九段とかですね、いろいろな人が挑戦者になったんだけれども、大山名人と戦った棋士たちの作戦が、はっきりいってうまくなかった。大山名人はもの凄く勝負師だったんですね。大山名人の作戦自体はそんなに上手いわけではないんだけれども、戦う相手の作戦に対応する力が強かったんですよね。で、まあ、将棋というものはですね、やっぱり、作戦や戦い方というのが大事だと私は思います。

katoumasuda02_03.png
第18期名人戦七番勝負第5局、升田は、大山に4勝1敗で敗れ、名人を失冠した。所蔵:日本将棋連盟

 

私は先ほどサイン会でお子さんから加藤先生の得意な形はなんですかと聞かれまして、私は矢倉ですと答えました。矢倉の作戦で私は大山名人に相矢倉でも対振り飛車の矢倉でも勝っているんです。矢倉で名人にもなっています。そういった意味で得意戦法を持つと非常にいいですよね。私は大山先生には棒銀でもよく勝ったんですけれども、升田先生にしても二上九段や他の挑戦者にしても、いい作戦をちょっと思い付かなかったことで、残念ながらね大山名人には勝てなかった。それが原因なんですよね。

katoumasuda02_sign.jpg
サイン会でサインをする加藤九段。撮影:古川徹雄

 

升田先生とは個人的に一緒に食事をしたり、歩を共にいたしましてですね、あちらこちらと歩いたりしてですね、いろいろと付き合いは長かったです。

【升田と加藤は共に朝日新聞の嘱託を務め、名人戦問題でも共に行動するなど特に信頼関係が深かったことは有名だが、一緒に食事をしたり散歩をするなど様々な交流があったことはあまり知られておらず、興味深い話だ】

 

升田先生は大山名人より3歳年上なんですよ。で、大山名人は私より16歳年上なんですね。

 

私から見た升田先生と大山先生は仲がよかったですね。意外に思われるかもしれませんし、世間の人はライバル同士でいつもドンパチやってる人が仲がいいはずがない、と思っているかもしれませんが、升田先生と大山先生は木見九 段門下の同門だったこともあって、長い戦いの中にあっても仲がよかったんだと思います。

 

最近、升田先生がご子息の授業参観に和服を着ていらっしゃっていたということを聞いたんですよね。それを聞いて私は非常によかったなと思っております。升田先生はあるときから、ほとんど和服で通されました。対局も和服、街を歩くのも和服を着ていらっしゃってとても雰囲気がありましたね。私は升田先生のご子息とは結構、お会いしてお話をするんですが、立派に成長されていらっしゃって。私も子どもが4人いますけれども、授業参観にはいつも行っておりました。

 

私は20歳のときに名人戦を大山名人と戦って勝てば日本一だったんですが負けました。そして翌年ですねA級からB1に陥落してしまいます。そのときに升田先生が僕に言いました「自分の息子に、あの天才といわれる加藤一二三でもA級からB1に落ちたんだから、お前は少しくらい学校の成績が悪くても落ち込むことはない」と励ましたと。升田先生はなかなか言うことが違いますね。

 

その後A級に1期で戻ったんですが、そのときも升田先生は「君は偉い。谷底に落ちたライオンはゆっくり傷を癒してから元の場所へ戻ろうとする。君はB級に落ちて大きく傷ついたはずで、普通の人間は傷を癒すのに3年ぐらいかけてA級にカムバックするものだけど、君は1年で上がってきた。君は本当に偉いね」と褒めてくださいました。升田先生ってやっぱり着眼がいいですよね。

【加藤のこのエピソードから、升田がことあるごとに加藤を心配し気遣って、言葉を選びながらエールを送っている様子が伝わってくるようだ。豪放磊落、毒舌で鳴る升田の意外な一面、本来のやさしく繊細な人柄がにじみ出ているようでとても面白い】

 

升田先生は長年、私の将棋を非常に高く評価してくださっていて勝つことを期待されていたんですけども、その訳はですね、私が小学校6年生か中学校1年生のときに升田先生がたまたま私の将棋を大阪の将棋会館で見てこう言ったんですよね、「この子、凡ならず」と。升田先生ほどの天才がですね、そう言ってくださって「凡ならず」というのは強かったという意味だったのが分かりまして、とても励まされてうれしかったです。

katoumasuda02_04.png
第13回NHK杯将棋トーナメント戦決勝、升田九段と対戦する加藤八段(※段位は当時)所蔵:日本将棋連盟

【このときの対局は板谷四郎八段(当時)が加藤少年に声をかけ飛車香落ちで稽古をつけているのを、たまたま升田が見かけたときのひとコマ。以後、升田はことあるごとに奨励会員の加藤に声をかけ練習将棋を指してくれたという。当時から天才少年の呼び声の高かった加藤への期待の大きさが分かるエピソードだ】

 

以来、升田先生はずっと私の将棋をご覧になってくださって、調子がいいときは「おっ、加藤」と、それだけでそっとしておく。私の調子が悪いとき、昭和44年頃がスランプだったんですけれども、そのときに升田先生は言いました「加藤君、いま君はスランプだが、それは長くは続かない。活躍していない今、君は潜む竜だ、竜が力をためて潜んでおるんだ。いずれいったん活躍しだしたら誰にも追いつけないほどの大活躍をするとわしは信じている」と。それで升田先生のお宅で潜む竜「潜竜」と色紙に書いてもらったんですけれども、それは升田先生の私への大きな期待でエールでしたね。

 

生涯対局2505局は歴代第1位、勝数は1324勝で第3位他、数々の記録を打ち立てることができて、升田先生の大きな期待に応えることができたかなと、非常にうれしく思っております。また機会があれば升田先生の素晴らしいお人柄を語りたいと思っております。 ご清聴ありがとうございました。

 

講演が終わると小中高生や父兄の皆さんから大きな拍手が沸き起こった。升田幸三の世界のはずが、本コラムでは割愛したが、話が大きく脱線してしまったところもあった。それもまた加藤一二三の味わい。伝説の棋士升田幸三の真の姿を知る棋士も少なくなった昨今、また別の機会にゆっくりと加藤だけが知る升田幸三を語ってもらいたいものだ。

古川徹雄

ライター古川徹雄

観戦記者。通称ふるてつ。元将棋世界編集部。河口俊彦先生(八段・故人)の「対局日誌」に憧れ、作家・大崎善生氏の「聖の青春」に背中を押されて将棋界の門を叩き、田名後(現『将棋世界』編集長)門下となり今日に至る。元博報堂DYホールディングスグループ経営・教育コンサルタント。こぶ平(正蔵)に似ていると言われるが本人は大いに不満。Twitterアカウントはこちら

このライターの記事一覧

  • Facebookでシェア
  • はてなブックマーク
  • Pocketに保存
  • Google+でシェア

こちらから将棋コラムの更新情報を受け取れます。

Twitterで受け取る
facebookで受け取る
RSSで受け取る
RSS

こんな記事も読まれています