陣屋事件--升田の夢が現実になったとき【升田幸三特集 第3回】

陣屋事件--升田の夢が現実になったとき【升田幸三特集 第3回】

ライター: 古屋甲州  更新: 2019年01月16日

升田幸三実力制第四代名人は、第1期王将戦木村義雄名人と雌雄を決することになりました(以下称号は省略します)。

七番将棋は升田から見て〇〇●〇〇と進み、第5局で王将位を獲得するとともに、名人を「半香」に指し込んでしまいました。香落ちと平手の2局1組となるハンデです。

香落ち戦の第6局は、昭和27年(1952年)2月18・19日に神奈川県の鶴巻温泉にある旅館「陣屋」で行われることになりました。これは「名人が香車を引かれる」史上初の対局として、大きな注目を集めたのです。

事件は対局前日の2月17日に起こりました。升田が「陣屋」に入らず、近くの「光鶴園」という旅館に籠って動こうとしなかったのです。あわてた関係者が事情を聞くと、升田は陣屋の非礼を主張しました。単独行動だった升田は一人で陣屋の玄関まで行ったものの、出迎えもなく、ベルを押しても誰も出てこず、こんな旅館では対局できん、と怒ったそうです。

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指してくれ、いやだ、という押し問答が続き、とうとう対局は中止になりました。

激怒した日本将棋連盟理事会(当時の会長は渡辺東一名誉九段)は、升田の1年間出場停止理事の総辞職を発表しました。ところが、これを理事会の独断専行と反発する棋士が多数現れ、急きょ開かれた臨時棋士総会は大紛糾です。結局、事の収拾は「木村名人に一任」と決まりました。

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木村は、升田の処分撤回、理事の辞表は受理せず、どちらも遺憾の意を表せよ、という裁定を下します。王将戦は、第6局の香落ち戦を升田不戦敗とし、第7局の平手戦は升田が勝ち、まがりなりにも七番将棋を全うしました。

王将戦はこの事件で一気に社会的注目を集め、陣屋も飛躍的に知名度が高まったのです。升田は名人を香落ちに追い込んだ男としてスターとなり、木村は寛大な裁定で貫禄を示しました。これが「陣屋事件」の表面的一部始終です。

あえて表面的と言いました。だって、なんだか妙な話じゃないですか。

升田は13歳で家出をするとき、「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書き置きしました。夢と心意気を、20年かけて現実のものとしたのです。それがかなうというのに、わざわざ現地まで行っておきながら、対局を拒否するでしょうか。

また、木村の裁定は「なかったことにするから、反省しろ」と言っているようなものです。対局拒否という重大事案で、こんな裁定があるのでしょうか。

棋士になってからの升田が「名人に香を引く」という非現実的な目標をもっていたはずはありません。第一人者である木村へ対抗心をむき出しにして挑み、自他ともに認める「打倒木村」の一番手になっていったのです。あくまでも「名人を倒す」ことが現実の目標でした。

だから升田に達成感はあったでしょう。ただ、第1回でも触れたように、升田には繊細な内面がありました。前代未聞の事態に戸惑い、屈辱の対局に臨む木村に対しては複雑な思いがあったはずです。

このあたりは『名人に香車を引いた男 升田幸三自伝』(中公文庫)に詳しく、「できたら指したくなかった」ということがはっきり書かれています。

ギリギリまで逡巡した升田の、これが唯一の逃げ道だったのでしょうか。そして木村はどんな思いで裁定を下したのでしょうか。

事件の発端について、「陣屋のベルはこわれていた」ということになっていますが、「そもそもベルなどなかった」という話もあります。また、「升田は陣屋の前でうろうろしていただけで立ち去った」という証言もあります。

もう関係者のほとんどが世を去っていますから、謎は謎のまま「歴史」として想像をめぐらせるだけです。

升田は4年後の第4期に、この王将戦で大山康晴名人を3連勝で指し込み、名人に香を引いての対局を実現しました。そしてその将棋も勝ったのです。

大山はそもそも駒落ちからさんざん稽古をつけた弟弟子です。だから木村相手のときのような心の乱れはなかったようですね。

升田は、名人に香車を引いて勝った唯一の棋士として、歴史に名を残しました。

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3回にわたって、升田幸三という棋士の、ほんの一部を紹介しました。関連するエピソードは山のようにありますし、何よりも升田の名局、名手が棋譜として残っています。書籍などで、ぜひお楽しみいただければと思います。
(※昭和40年(1965年)に指し込み制は廃止された。それまでに、指し込まれた棋士は、木村義雄十四世名人、大山康晴十五世名人、高島一岐代九段、松田茂行九段、二上達也九段、加藤博二九段、加藤一二三九段の七名。なお、高島九段以降はすべて大山十五世名人が指しこんだ。)

升田幸三をご存知ですか

古屋甲州

ライター古屋甲州

サラリーマンを定年前に卒業し、フリーに転身した昭和のおじさん。 活字媒体からデジタルメディアまで、制作全般に携わってきた。 棋戦運営の経験もあり。

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