鈍くさい将棋が好き? 八代六段が師匠の青野九段から学んだこととは【八代弥六段インタビュー】

鈍くさい将棋が好き? 八代六段が師匠の青野九段から学んだこととは【八代弥六段インタビュー】

ライター: 内田晶  更新: 2017年11月17日

第2回は、八代弥六段の奨励会時代の話です。師匠の青野照市九段は、棋界有数の居飛車の正統派として知られています。そんな師匠から厳しい手ほどきを受けていたとのことですが、それは一体どういったものだったのでしょうか。

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第50回奨励会三段リーグ(2011年10月?2012年3月)終了後、四段昇段を決め、書類に記載する八代三段(当時)。撮影:広報課

ーー奨励会時代は師匠の青野九段とのぶつかり稽古で鍛えられたそうですね。

「師匠には技術的なことを中心に、いろいろなことを教えていただき、とても感謝しています。月に1回のペースで静岡にある師匠のご自宅に伺い、奨励会で指した将棋を見ていただいていました。その後、2局指していただくのですが、奨励会に入会した直後からしばらくは、すごく緊張したことを今でもはっきりと覚えています」

ーー青野九段といえば棋界を代表する本筋の将棋で対振り飛車では急戦の大家といわれています。指導を受けて影響を受けましたか。

「当たり前かもしれませんが、師匠は将棋に関して、すごく厳しいです。6級から4級ぐらいまでは私の指し手を見て『プロの将棋にない手だ』と、いつも怒られていました。当時の私は力任せといいますか、棋理に反する手ばかりで、師匠から厳しく指摘をされたものです。時には私の将棋のすべてを否定されているように聞こえて、精神的にきつかったですね」

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第67期王将戦一次予選(対 黒沢怜生五段戦)で目を閉じ読みに耽る八代六段。撮影:常盤秀樹

ーーそんな中、着実に実力をつけて成長していったわけですね。師匠との稽古で印象に残っていることはありますか。

「中学1年で4級になったときのことです。1局目に私が勝ったことがありました。感想戦では特に何も言われず、2局目に負けたあと『うん、強くなったね』と言ってくださったのです。うれしかったですし、大きな自信になりました。でも師匠の厳しさは私が初段になるまで続きました。ですので指導対局は師匠に怒られない筋のよい将棋を指すことを心掛けていました(苦笑)。振り返れば、それがプロの本筋を身につけることにつながったのだと思います」

ーー八代六段の将棋の持ち味を教えてください。

「持ち味と言うより特徴としては鈍くさい将棋です。じっくりと一局を長く楽しむのが好きで、少しの有利をじわじわと拡大できるのであれば、どんなに手数が長引いても苦にならないのが私の強みでしょうか。最近のプロの将棋は序盤からスキあらば主導権を取りにいく展開が主流で、私のような、のんびりとした将棋が激減しました。同世代の棋士と比べて私の将棋観は変わっているかもしれません」

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第67期王将戦一次予選での八代六段。撮影:常盤秀樹

ーーもう少し具体的に説明していただけますか。

「石井健太郎四段らほかの若手棋士は終盤の鋭い将棋だと思っています。彼らと競り合っては分が悪いので、私は他の棋士が持っていない部分で勝負していきたいと考えています。棋風を変えたいと考えたこともありましたが、自分の将棋を信じてやってきてよかったです。朝日杯の優勝で自分の将棋観や価値観が間違っていなかったんだなと、あらためて感じることができたのですから。もちろん、まだ自分の将棋が完成されているとは思っていません。他の棋士のいいと感じる部分を少しずつ吸収して、貪欲な姿勢で将棋と向き合えればと考えています」

奨励会時代の師匠の指導が現在の八代六段の基礎を形成したともいえるでしょう。語っていただいたエピソードは、八代六段と青野九段との絆を感じさせます。

次回は、八代六段の出身地・静岡への郷土愛について語っていただきます。

八代弥六段インタビュー

内田晶

ライター内田晶

1974年、東京都の生まれ。小学生時代に将棋のルールを知るが、本格的に興味を持ったのは中学2年のとき。1998年春、週刊将棋の記者として活動し、2012年秋にフリーの観戦記者となる。現在は王位戦・棋王戦・NHK杯戦・女流名人戦で観戦記を執筆する。囲碁将棋チャンネル「将棋まるナビ」のキャスターを務める。

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