初めての弟子・村山聖九段との思い出「村山君との関係は普通のマニュアルに書いていない局面ばかり出てきた。」

初めての弟子・村山聖九段との思い出「村山君との関係は普通のマニュアルに書いていない局面ばかり出てきた。」

ライター: 虹  更新: 2017年10月27日

第2回は、森信雄七段が四段に昇段し、プロ棋士となった時のことや昨年11月に公開された映画『聖の青春』の主人公、故・村山聖九段との思い出について話していただきました。また、詰将棋でも有名な森七段に創作の極意についても語っていただいています。

mori7_02_01.jpg

―1976年に棋士デビューしました。憧れの先輩棋士はどなたでしたか。

「やっぱり大山先生(故・康晴十五世名人)と升田先生(故・幸三実力制第四代名人)でしたね。新しい棋譜が入ってくるのがすごくうれしくてね。魅せる攻防に憧れて、こんな感じで好手が見えればもっと強くなれたのになぁと思っていました」

―では、ライバル視していた棋士はどなたでしたか。

「児玉さん(孝一八段)や東さん(和男八段)です。歳も近かったので」

―棋士になってから勉強方法に変化はありましたか。

「連盟に行って感想戦に参加したり、棋譜を見たり。でもそれが減りましたね。塾生を卒業して、連盟を離れて奈良に住んだのでどうしてもね。出るんだったら将棋とは関係のない、気持ちのよいところにしたかったんです。静かにできるかなと思って」

「ただ、奈良はマズかったんです。奈良競輪場が歩いて5分ぐらいのところにあったんですよ。鐘の音がジャンジャンジャンと聞こえてくると、将棋の勉強どころじゃなくなって(苦笑)」

mori7_02_02.jpg
第6期リコー杯女流王座戦五番勝負第1局の前夜祭では、故・村山聖九段の母・トミコさんも出席した。撮影:常盤秀樹

―新人棋士の頃の、森流の対局前の心構えを教えてください。

「対局前日は人としゃべらないために、誰とも会わないようにしていました。やっぱり集中力を欠いてしまうから。将棋の勉強もしないようにして、本を読んだりクラシック音楽を聴いたり、映画を見たり、静かにしていましたね」

―対局中の様子は、現在と比べていかがでしたか。

「当時は長考派で、手数も長かった。あと、ヘビースモーカーで、対局中にたばこを4~5箱吸ってました。だから記録係に嫌がられそうなタイプだったんですよ」

「形勢が悪くなってからが粘り強かったけど、有利になってからはずっとヘタでしたね。勝ち急いでしまうところがありました。あと相手が勝負手を放ったときに、対応を間違えることが多かったですね。それらがかなりの弱点だったと思います。ちょっと悪いぐらいのほうが伸び伸びと指せていましたね」

mori7_02_03.jpg
広島市で行われた第6期リコー杯女流王座戦五番勝負第1局前日に森一門の棋士、女流棋士で記念撮影。撮影:常盤秀樹

―森先生といえば「ザ・師匠」のイメージが強いです。

「弟子をとるようになったのは......村山君(故・聖九段)が初めなんで、30歳ぐらいの頃だと思うんですけど。初めからいろんなことがあるのが不思議な縁ですよね。自分が棋士になったときと同じような気がします」

―『聖の青春』では、村山先生との壮絶なエピソードの数々に心を奪われました。

「僕のほうは身近に接しているから、壮絶というよりは結構楽しかったですよ。将棋と一緒でいろんな攻防があって、ピンチがあって、潜り抜けて、チャンスが来て、大変なんだけど切り抜けたりしたこととか、そういう波がすごいありましたね。僕のほうはツラいということはまったくなかったんです」

―村山先生との思い出で嬉しかったことを教えてください。

「やっぱり、しばらく顔を見られない時期にパッと見たりするとね。棋士になってからはあまり会わないようにしていたから。呼ばれるときは大抵、村山君に何かがあったときです。だから何もないときに、たまに顔を見ると可愛いなぁと思いましたね(笑)」

―逆に、ツラいと感じたことは何ですか。

「何かのときには絶対に人の言うことを聞かないところがあって。意固地になるというか、聞く耳持たないという『村山オーラ』があるんですよ。それを覆すためには、こっちが対抗できるだけのオーラを持たないといけない。『どうなんだ?』ぐらいの気持ちでいくとガーンと跳ねつけられますから、『ええ加減にせえよ!絶対に引かんぞ!』というふうに覚悟を決めていきました」

「ただ、それはしんどいというよりは、奮い立たされるというか、ある意味では面白いんですよ。普通のマニュアルに書いていない局面ばかり出てきます。自分で判断するしかないから、村山君の考えていることとか、いろんな状況とかを調べておかないといけない。だから頭がすごく回転しましたね。僕も鍛えられました」

mori7_02_04.jpg
詰将棋創作について真剣に語る森七段。撮影:虹

―また、森先生は詰将棋の創作でも有名です。

「今は短手数の仕事をやっていますけど、依頼されれば長手数もやりますね。昔は中編詰将棋を創ることが多かったです」

「将棋世界の『あっという間の3手詰』は、やり始めた頃は名前を伏せていたんですよ。3手詰を創ったことがなく、うまくやれるかどうか自信がなくて。でも創ってみたら面白くて、徐々に本も出せそうな感じになって、それから名前が出るようになりました」

「当時は3手詰や5手詰の詰将棋本は売れない、やさしすぎてみんな興味を持たない、という風潮がありました。でもあの時代、3手でも難しい詰将棋はあると言った頃から商品価値が出だして、短手数にも「○○作」と作者名がつくようになりました。3手詰を広めたという自信はありますね」

―どういう視点で詰将棋の創作をしていますか。

「例えば『角を捨てて金打ち』の3手詰だけでも種類がいっぱいあるんです。昔の3手詰は頭の体操みたいな感じで出題されていましたけど、それじゃあダメです。やさしい3手詰でも、丁寧に気持ちを込めて創らないとダメなんですよ」

「以前誰かに怒ったことがあるんです。『森先生、私も3手詰を創ったけど、こんなんでいいですよね?』と言われて、『もう"こんなん"という言葉を使う時点であなたダメです!』と。そうじゃなくて、どういう形がいちばんよいのか、角を捨てるにしても王手がたくさんある形か少ない形か、そういうことを調べていくといっぱい種類があって、その中から自分が選ばないといけない」

やさしい詰将棋の"やさしい"は、安易という意味とは違うんですよ。"やさしい"には親切さが入っているんです。僕の個人的な見解もあるけど、そういうのをみんなが感じてきて、現代では3手詰も単行本化するようになったんじゃないかと思います」

「僕の創る3手詰だと、類型2問をセットにして初めて詰将棋作品にしています。片方の詰み筋だけでは意味がないんですよ。2問セットなら初心者の方向けに生きてくる、意味を分かっているかが確認できるんですよね。やさしく、親切に、そして次に広がるような3手詰を。いまの僕は芸域を広げているような状態ですね」

映画では、故・村山九段の壮絶な生き様が描かれていましたが、その一方で師弟の間の楽しい思い出も多くあったようです。また、詰将棋に対する情熱は、森七段の中で発展途上の最中にある、といったところでしょうか。その意欲的な取り組みから生み出される作品に期待したいです。

第3回は、現役時代を振り返って、思い出の対局について聞いてみました。

森信雄七段インタビュー

虹

ライター

2011年6月、将棋の中継記者として関西で活動開始。元システムエンジニア。日々是好日。目の前にスイーツを出されたら何でもします。

このライターの記事一覧

この記事の関連ワード

  • Facebookでシェア
  • はてなブックマーク
  • Pocketに保存
  • Google+でシェア

こちらから将棋コラムの更新情報を受け取れます。

Twitterで受け取る
facebookで受け取る
RSSで受け取る
RSS

こんな記事も読まれています