「あの期間がなかったら、絶対に棋士にはなれなかった」森信雄七段が塾生時代に得たものとは?

「あの期間がなかったら、絶対に棋士にはなれなかった」森信雄七段が塾生時代に得たものとは?

ライター: 虹  更新: 2017年10月24日

2017年5月に現役引退となった森信雄七段にインタビューをしました。森七段と言えば、2016年11月公開された、映画『聖の青春』の主人公、故・村山聖九段の師匠で、現在も多くの弟子を抱える一門の長として有名です。また、詰将棋や次の一手では、優れた作品を数多く発表していることでも有名です。第1回は、将棋との出合い、そして奨励会に入門した頃のことを話していただきます。

森信雄七段
1980年第11回新人王戦で優勝。詰将棋、次の一手を多く制作し、その作品は定評がある。また、多くの弟子を持つことでも知られ、映画『聖の青春』の主人公・村山聖九段もその一人。2017年5月16日の竜王戦(対大橋貴洸四段戦)を最後に引退。

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 ――まず好きな戦法は何でしょうか。

「振り飛車穴熊が好きですね。勝ち負けは別として、いちばんよく指したような気がします」

 ――趣味や日課を教えてください。

「趣味は競馬とカメラですね。カメラのほうは、以前は仕事という感じでした。いまでも手放しません(胸ポケットからデジカメを取り出す)。散歩に出掛けたときや、家の中とかでも撮るのが好きです」

「日課ですけど、対局中に座るのがきつかったので、今年4月から足腰のためにプールで歩くようにしています。1度に1時間以上やりますね。効果が出るには時間が掛かりそうですが、何となく手応えはあります」

 ――座右の銘を教えてください。

「村山君(弟子の聖九段)の真似なんですけど『大局観』です。いろんなものにつながる考え方ですね。狭い視点で見ないで、思い直してリセットすることは、将棋以外でも結構大事なんで」

 ――関西将棋会館付近で好きな料理店はありますか。

「聖天通りにある『すえひろ』という居酒屋さんが大好きですね。よく酒飲みが集まります。食べに行くというよりも、旦那さんと奥さんの雰囲気がよいのでホッとしますね。

ただ足が痛いから最近は行けてないんですけどね。たまに行くと怒られます、もっと来てって(笑)」

 ――将棋を覚えたのはいつごろですか。

「小学5年生ぐらいの頃、神社の境内で朝から夕方まで将棋をやっているのを見て、指したいなぁと思って。それがキッカケで時々遊びにいくようになりました。暗い時間帯や寒い時期はできませんけど、いろんな人が集まるから面白かったですね」

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インタビューを受ける森七段

 ――師匠の(故)南口繁一九段との出会いを教えてください。

「僕が就職で大阪に来たときに、南口先生の教室があって。当時はまだアマ二段ぐらいで、棋士になるという話ではないけど、会社に行きながら大阪まで出て教室に通いました。やっぱり心のどこかに奨励会のことがあったと思うんです」

 ――棋士を目指そうと思ったのはいつ頃からですか。

「19歳と少し遅めでした。それは高校卒業後の、機械を使う仕事に就職していた頃なんですけど、機械をストップさせたりしてすごい迷惑を掛けたんですよ。向いてないなぁ、辞めたいなぁと思って。将来を考えたときに自分ができることは何かと考えたら将棋だったんです。上を目指していたというよりは、職業のひとつとして選んだんですよ。将棋がダメなら次を考えないといけないな、という気持ちで初めは向き合っていたんですね。だから棋士になった動機は、ちょっと不純なんですけどね(苦笑)。いまの子たちが棋士を目指すのとは全然違うので。

それで、あるとき、山形から棋士を目指して家出してきた子が南口先生のところへ来て、奨励会試験を志願したんです。その場にたまたま僕もいて、ひと言いったんですよ。『僕も受けていいですか』って(笑)。そしたら『そうか、森君も受けたいんか』と了承してもらえました。先生からしたら、棋士になりたいというより奨励会を受けてみたい、という発想でしょうね。だからその家出してきた子には感謝していますね、棋士になるキッカケを作ってくれて。巡り合わせです。僕はそういうのばっかりですよ。たくさんありました」

 ――1970年に奨励会入りされました。当時のご自身はどういった人物でしたか。

「無口でおとなしかったですね。辛抱強いけど、人付き合いはよくなかった。根が暗いわけではなくて、人と話をするのが面倒で、ひとりで何かやるのが好きなタイプでした。それは奨励会に入ってしばらくして変わりました。自分の元にある性格が出てきたのかもしれませんね」

 ――当時の奨励会は、森先生から見てどういう存在でしたか。

「極端にいえば『刑務所』ですね。世の中で普通のことをしてはいけない。将棋に関することだけをやって、刑期を終えて棋士になるまでは一切ほかのことはやらない。そう心掛けていましたね。でも張りがあって、つらいと思ったことはないです」

「当時は奨励会員の人数が少なくて、例会では駒落ちも多かったです。2級と6級で角落ちか香落ちだったんですよ。上手を持って角落ちだと勝てないし、香落ちはボロ勝ちでね、この手合いは面白くなかったです」

 ――当時の関西将棋会館(大阪市阿倍野区)で、現行とは違う塾生をされていたとか。

「成績が伸び悩んで、奨励会をやめないといけないかなと思っていたとき、偶然にも塾生の枠が空いたんですよ。それですぐそこに入ったのがよかったですね。当時の塾生は住み込みで、環境が一気に変わって。将棋の勉強というよりも、一日中将棋漬けでした」

「仕事内容は、対局の準備(現在は記録係の仕事)をして、棋士の食事は昼食や夕食だけではなくおやつも出して、泊まる棋士がいれば布団も敷いて。けど僕はそういう作業が好きだったんですよ。人よりも素早く動いて、こなしてしまうのが特技なので。だから住み込みのおばさんに『役に立つ』って好かれましたね(笑)」

「昔の棋士の先生方はよく寝泊りするんでね、それで朝まで酒を飲むんですよ。だから嫌がる人は逃げるんです。でも僕は昔の棋士の、人情味があって、危なっかしいけど憎めないような、そういう雰囲気が好きなんで。自分が好きなのが通じて、ベテランの先生にも好かれて。一緒に将棋を見たりだとか、将棋の話をしてくれたりだとか」

 ――塾生で得るものが大きかったのですね。

「そこにいれば強い将棋を観戦できましたし、仕事の合間は常に将棋を指せましたし、楽しくって、それでなおかつ奨励会でも勝ち出したんでね。言うことないですよ。あの期間がなかったら、絶対に棋士にはなれなかったです」

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 ――修業時代の勉強方法を教えてください。

「そのときは実戦がメインですね。塾生をやってたくさん指すようになって、勝つというよりは粘り強くなりました。それと指すのが早くなりましたね。塾生をやっていると東京から郵送されてくるいちばん新しい棋譜を並べられるという特権がありました(当時はまだインターネット等が普及していない)。あと僕は詰将棋が好きなので、時間があれば解いていましたね。24時間将棋という感じでした」

 ――以前、竹内雄悟奨励会三段(現四段)に「ひとりで勉強したほうが強くなる」というアドバイスをされたとか。

「将棋しかない環境、というのが僕はすごくよいと思うんですね。人に会うと、自分だけのペースでは動けなくなるから。結局はひとりでやらないと崩れますね」

 ――いまでは多くの弟子を育てる立場になりました。修業時代のご自身にひと言あるとすれば。

「もうちょっと将棋漬けの時間を増やしたかったです。棋士になってからも塾生をやりたかったんですよ。『塾生でおらしてください』って頼んだんですけど、やっぱりダメでした(笑)。もっと早くから棋士を目指して、塾生の期間をもう5年ぐらい増やせば、すごい強くなったんじゃないかなと思います」

第2回は、プロ棋士となってからのこと、そして村山九段とのことなどを中心にお話しいただきます。お楽しみに。

写真撮影:虹

森信雄七段インタビュー

虹

ライター

2011年6月、将棋の中継記者として関西で活動開始。元システムエンジニア。日々是好日。目の前にスイーツを出されたら何でもします。

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