将棋コラム

大学通学も、居飛車党への転身も視野を広げるため。「バランスがよくなり、いい将棋が指せるようになった」【注目の若手・中村六段インタビュー vol.3】

大学通学も、居飛車党への転身も視野を広げるため。「バランスがよくなり、いい将棋が指せるようになった」【注目の若手・中村六段インタビュー vol.3】

更新: 2017年02月09日

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中村太地六段インタビュー

順調に将棋人生を歩んできたように見える中村太地六段ですが、奨励会時代もさることながら、プロ棋士となった当初、自身の将棋のスタイルを変えるのに苦労があったようです。学業と将棋の両立なども含め、苦労した思い出を聞いてみました。

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クリスマスフェスタ2015で催された席上対局の模様。撮影:常盤秀樹

 ーー2006年3月、第38回奨励会三段リーグを卒業。プロ棋士デビューを果たしました。17歳で棋士になって順風満帆に見えましたが、奨励会時代の苦労をお話しください。

「度合いこそ違いますが、奨励会時代は誰もが苦労しているはずです。下級時代は昇級ペースが遅かったので、自分を追い抜いていったライバルたちの背中を見て、もどかしい気持ちになりました」

 ーー三段リーグは4期で卒業しました。2年間の三段時代はいかがでしたか。

「2期目に9連勝スタートをしたとき、周りからは冗談半分で『昇段だね』といわれました。自分では気を引き締めて臨んだつもりでしたが、そこから3連敗を喫して崩れてしまったのです。最終的には12勝6敗でリーグを終えましたが、最終日は昇段争いにも加わることができませんでした」

「9連勝スタートというこれ以上ない最高の状況でしたが、これで昇段できないようではプロになれないだろうと後ろ向きな気持ちになってしまって。当時の私はまだ16歳でしたが、物静かな性格的にも深刻にならざるを得ない精神状態でした。今後も半年間で同じような状況を繰り返したらどうしよう、いつまでたってもプロ棋士になれないのではないかと悩んで、頭がおかしくなってしまいそうになったのがつらかったです」

 ーー9連勝したことで知らず知らずのうちに気が緩んでしまったところもあったのでしょうか。

「振り返ってみて、絶対に棋士になるといった覚悟が足りませんでした。昇段を逃してから棋譜並べなども真剣にやるようになりましたし、目的意識を持って勉強するようになったのも、この頃からだったような気がします。自信を失いかけましたが、何とか踏みとどまることができました。その苦しんだ経験がいい薬になったのは事実です」

 ーー学業との両立も時間的にハードだったと聞きますが、実際はいかがでしたか?

「私の修業時代は奨励会が平日に開催されていたので、どうしても学校を休まなければいけなかったのが大変でした。実際に出席日数を確保するのがギリギリになってしまいましたから。学校を休むと授業についていくのが難しく、自分一人の力ではどうにもならなかったですね。友人にノートを見せてもらったり、分からないところは先生に個別で質問したり、早朝に補習してもらって何とか乗り切ることができました」

「棋士としてやっていくうえで学校の勉強がどの程度、生きているかは正直いって分かりません。ですが、置かれた状況で一生懸命やるというのが自分のモットーでもあります」

 ーー今でこそ大学に通いながら棋士を目指す奨励会員も増えてきましたが、当時は珍しかったと思います。棋士になれなかったときのために保険を掛けている、といった厳しい意見を耳にすることもあったそうですね。

「ええ、確かにありましたね。大学に行く暇があったら将棋の勉強を優先すべきと思っている人も多かったでしょう。最終的には自分が何をしたいかというのが大事だと考えた結果です。いまは両立してよかったと思っています」

 ーー大学に通って最もプラスになったことは何でしょうか。

「私が大学に通ったのは視野を広げるためでした。将棋に関係のない友人たちとの付き合いで勉強になったことも多いです。将棋以外の分野で友人を作ることが自分の人生を豊かにすると考えました。当然、将棋を極めたうえでのことですが、結果的に大学に通って正解だったと思います。米長先生は他業界の方との交流が盛んでしたが、知らない世界のことを理解するのが面白いと考えていらっしゃったのかもしれませんね。師匠ほどではありませんが、私にも少しだけ分かったような気がしました」

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撮影:内田晶

 ーー2006年春に晴れてプロ棋士になりました。当時は振り飛車党でしたが、デビューしてすぐに居飛車党への転身を図ります。居飛車と振り飛車では感覚が違うので、他業種への転職のような大変さがあるはずです。一大決心の理由を教えてください。

「振り飛車しかできない時代に、自分は将棋の面白さの半分しか知らないではないかと考えまして。せっかく将棋をやっているのにもったいないと思ったのが半分。もうひとつは振り飛車しかできないと対戦相手に的を絞られてしまい、勝ちにくくなって不利になると考えたからです」

「さらにいえば現在は居飛車と振り飛車の境目がなくなってきている状況です。どちらも指せないと対応できない局面が存在することもあります。そのために、両方とも学んでおく必要があると考えたわけです。居飛車も身に付けることによって指し手のバランスがよくなり、いい将棋が指せるようになったのではないかと自負しております」

 ーー居飛車と振り飛車を学んでみて、どちらがしっくりきますか。

「私は本来、攻め将棋です。振り飛車党の時代は破壊力が魅力の藤井システムを好んで指していました。攻め好きの棋風である自分の将棋は、居飛車が性に合っているのではないかと以前から考えていました。しかし、奨励会時代はフォームを変えることで勝てなくなってしまうのではないかといった不安がつきまとい、あまりにもリスキーだと考えました。三段時代は振り飛車である程度の結果が出ていましたし、居飛車党に転身するのはプロになってからと決めていたのです」

 ーー居飛車党に転身した当初は感覚の違いにだいぶ苦労されたとか。黒星という名の授業料もだいぶお高くついたそうですね。

「定跡を覚えるのがひと苦労でした。居飛車といっても膨大ですから。居飛車党なら知っていて当然の筋を知らずに負けることも実際にありました。転身した当初は長い目で見てある程度の犠牲は仕方がないと覚悟はしていたのですが、実際に負かされると情けない気持ちになったものです」

 ーー振り飛車党から居飛車党への転身はプロ棋士でも難しいのですね。

「最新形はタイトル戦などでも指されているので常に勉強しています。ですが、あまり指されていないひと昔前の将棋の常識を身に付けるまでが大変でした。トーナメントプロとして最新形の勉強は必須で、昔の将棋は少しずつ時代を遡っていかないといけません。少し前の将棋になり、筋にはまって負かされた感想戦で、それが定跡だと知ったときはつらかったですね(苦笑)。師匠の言葉ではないですが、このとき喫した敗戦は社長になるための貯蓄になると、プラスに考えることにしていました」

 ーー居飛車と振り飛車の両方が指せる利点をどう感じていますか。

「やっぱり序盤の駆け引きが大きいでしょうか。振り飛車党のときは居飛車をやってみろといった駒組みを強いられることもありましたが、現在はそういったこともないですからね」

「中、終盤において居飛車党らしい指し手や、振り飛車党らしい考え方があります。居飛車は直線的な鋭い読みが必須になりますが、振り飛車は曲線的な緩やかな読みが主軸になります。初めは居飛車党の気持ちで考えてみて、厳しいようなら振り飛車党のときの感性で見ることで、難しい局面を乗りきったこともありました。学業と将棋の両立ではありませんが、居飛車と振り飛車を使い分けることで引き出しが多くなった気がします」(続)

次回は、いよいよ最終回となります。中村六段が初めてタイトルに挑戦した時のことや1年間NHKの報道番組に出演したときのこと、そして今後の目標について語っていただきます。お楽しみに。

中村太地六段インタビュー

内田晶

ライター内田晶

1974年、東京都の生まれ。小学生時代に将棋のルールを知るが、本格的に興味を持ったのは中学2年のとき。1998年春、週刊将棋の記者として活動し、2012年秋にフリーの観戦記者となる。現在は王位戦・棋王戦・NHK杯戦・女流名人戦で観戦記を執筆する。囲碁将棋チャンネル「将棋まるナビ」のキャスターを務める。

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