田丸九段インタビュー(後編)大山康晴十五世名人の対局日、その驚きの決め方とは?

田丸九段インタビュー(後編)大山康晴十五世名人の対局日、その驚きの決め方とは?

ライター: 松本哲平  更新: 2017年01月09日

前回、「自由な青春時代」を謳歌していたと話した田丸昇九段。今回は昭和50年ごろの話をうかがいます。(取材日:2016年11月15日)

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これは1972年3月21日のデビュー戦、新人王戦で河口俊彦四段と。2階建ての旧将棋会館です。和服を後援者に贈ってもらって、着て臨んだんですよ。もし竹内(雄悟四段)戦が決まったら(注・引退の決まった対局で勝っていれば、竹内四段と竜王戦6組昇級者決定戦の決勝を戦うことになっていた)、同じものを着ようという腹積もりだったんだけど」

「1974年から約2~3年は、手合係(注・対局日の調整役)をやっていました。昔は伝統でね、棋士が1人で全部やっていた。さかのぼっていくと剱持松二、木村義徳、五十嵐豊一、京須行男......。代々、棋士がずっと手合係を務めてきたんです。私のときに職員が1人、補佐でやるようになって、それを機に僕は辞めて、以後は今の体制になりました」

「みんな好き勝手言うんですよ。『何曜日じゃなきゃダメ』だとか。大山先生(康晴十五世名人)は私を呼びつけて、手帳を出して「この日とこの日は対局ね」と。私は従うしかないんです。升田先生(幸三・実力制第四代名人)は奥さんが秘書だったので。電話して「いついつは空いていますでしょうか」と。大山先生は1975年の11月から12月にかけて、5局ほとんど連続で対局してもらったこともありました。そうしないと終わらないんです」

「それまでは自由勝手に生きてきたんだけど、手合係になってから頭を下げて、『すいません、この日でお願いします』って。仕事を成し遂げるために頭を下げることを覚えたというか......。手合係は大変でしたけども、いい経験になりました。決して、つらいという記憶はないですね」

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 ――田丸九段がよく写真を撮っていたことは有名です。『将棋世界』では早くからコラムを書いていました。

「当時はいろいろと文章を書いていたんだけども、カメラがあると便利かなと思って、24歳のときに『将棋世界』編集部の清水孝晏さんに相談したんです。もともと奨励会員で、辞めたあとはカメラマン兼記者として仕事をしていた方ですね。そのときに譲っていただいたのが、ここに写っているキヤノンのカメラです」

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 ――『将棋世界』では1998年1月号から2000年12月号まで、田丸九段が撮影した昭和50年前後の写真を紹介する「マイ・フォト・メモリーズ」という連載がありました。写っている棋士の表情を見ると、田丸九段だからこそ撮れた写真が多いと感じます。

「カメラ小僧で、いろいろ撮ったんだ。何かあれば撮りにいってね。その場にいる機会ができたというのは、すごくラッキーだった」

 ――長嶋茂雄さんが中原誠十六世名人と盤を挟んでいる写真もありました。

「報知新聞の企画でね、対談兼記念対局をやりました。当時、私は報知新聞で次の一手や、エッセイを載せてたんです。新聞社の担当の人と知り合いだったので、ホテルニューオータニの茶室に取材に行けた。そうじゃなきゃ撮れませんよ」

「当時は若いから、なんでもかんでも平気で『撮らせてください!』って(笑)。今だったら撮れないね。遠慮しちゃうよね」

以上、田丸九段のインタビューでした。

松本哲平

ライター松本哲平

2009年、フリーの記者として活動を始める。日本将棋連盟の中継スタッフとして働き、名人戦・順位戦、叡王戦、朝日杯将棋オープン戦、NHK杯戦、女流名人戦で観戦記を執筆。連盟フットサル部では開始5分で息が上がる。

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