持ち時間、30時間?!竜王戦第1局開催地の天龍寺で70年前に行われた大一番とは【将棋の歴史】

持ち時間、30時間?!竜王戦第1局開催地の天龍寺で70年前に行われた大一番とは【将棋の歴史】

ライター: 山口恭徳  更新: 2016年12月24日

今年の竜王戦(読売新聞社主催)第1局の対局場である京都市嵯峨の天龍寺では、約70年前に将棋史上に輝きを放つ大一番も行われていました。映画や芝居、歌謡曲の「王将」で知られる阪田三吉と、関東の指し盛りの八段、花田長太郎との決戦でした。

histry01_01.png
阪田三吉贈名人・王将

histry01_02.png
花田長太郎贈九段

関根金次郎十三世名人の在位中にもかかわらず大正14年(1925年)に後援者の強い推薦で「名人」を名乗った大阪の阪田三吉は、将棋界で孤立していました。当時は名人に就いたら亡くなるまで名人、という終生名人制が続いていたのです。

読売新聞社の観戦記者・菅谷北斗星(本名・要)の十年来の要請に応えて阪田は昭和12年(1937年)に指し盛りの八段二人、木村義雄(31歳)、花田長太郎(39歳)と対戦することになります。昭和10年(1935年)に終生名人制から実力による名人戦が始まり、二人は有力な名人候補でした。「無段」を標榜した阪田は、満66歳の高齢でしたが、関西では依然として将棋の神様のように偶像視されていました。

持ち時間はそれぞれ30時間! 一週間連日戦う大勝負でした。対局場はどちらも京都。まず2月5日から11日まで南禅寺で行われた対木村八段戦では、先手木村の初手▲7六歩に対し、阪田は△9四歩と端歩を突き、世間をアッと言わせました。中盤で一手に6時間も考え込んだ阪田でしたが、ついに投了します。

約1カ月後の3月22日から28日まで、阪田は京都市嵯峨の天龍寺で"寄せの花田"とうたわれた花田長太郎八段と対戦します。

histry01_03.png対局開始前日の読売新聞の記事(昭和12年3月21日付朝刊)

先手花田の初手▲7六歩に、阪田は対木村戦とは反対の端歩(△1四歩)を突き、またも世間を驚かせました。4日目に入ると互いに体調を崩してしまいます。花田は風邪気味で微熱も出ましたが、北斗星に「倒れるまで頑張りますよ」と悲壮な決意を告げたのです。阪田も胃腸を悪くして、「おかゆさんにしよう」と消化のいい物だけを口にしました。

最終7日目。持ち時間各30時間のうち、残り1時間8分まで考えた阪田でしたが、一手足りずに敗れます(投了図)。

【投了図は▲8八玉まで】

この観戦記は北斗星の筆により読売新聞の紙面に大きく取り上げられました。観戦記の一節から。

「8八玉と寄ったのを見て坂田氏は『これまでです』と駒を投げ、静かに頭を下げた。花田氏も『いろいろ有難うございました』と、丁寧に礼を返した。首をあげた坂田氏の顔は、意外にさばさばと微笑をさえ漏らしていた。『力一杯指したのだから、しょうがない』とあたりを顧みて言った。」

木村、花田に連敗した阪田に対する評価はどうなったでしょうか。のちに木村は次のように語っています。

「(南禅寺の決戦に)私が勝って、続いて天龍寺で行われた戦いでも花田さんが勝っちゃったから、坂田さんの市場価値はグンと落ちちゃったね。勝負の世界は、そこが厳しい。」

木村の言葉通り、この連敗で阪田の時代は去り、将棋界が新しい時代に入ったことを世間にはっきり印象付けたのでした。

山口恭徳

ライター山口恭徳

将棋史研究家。新聞将棋の歴史を大学の卒論にして以来38年間、細々と研究を続けてきました。
花冷の花びらに日の差しにけり 恭徳

このライターの記事一覧

この記事の関連ワード

  • Facebookでシェア
  • はてなブックマーク
  • Pocketに保存
  • Google+でシェア

こちらから将棋コラムの更新情報を受け取れます。

Twitterで受け取る
facebookで受け取る
RSSで受け取る
RSS

こんな記事も読まれています